15年ぶりのアイルランドへの旅
2009年4月4日、妻の定年退職を機に、「レコード・ライブラリー&カフェ シャムロック」という喫茶店をオープンしました。これは、喫茶店をやりたかった妻と中学時代からレコードを集めていた私の趣味を合体させたものです。「災い転じて福をなす」という言葉がありますが、家族にじゃまにされていたレコードを活用し、音楽好きなお客さんに楽しんでもらおうというコンセプトがお店のひとつの柱になりました。
そして、「シャムロック」という名前ですが、これは私のアイルランド好きから決まりました。シャムロックとはアイルランドの国の花です。三つ葉のクローバーに似た花(というより草)ですが、5世紀頃に聖パトリックというお坊さんが、アイルランドにキリスト教を布教するため、シャムロックを使って「三位一体」を説いたということです。それが、アイルランドの国のシンボルとして使われるようになりました。聖パトリックの命日である3月17日は、「セント・パトリック・デイ」と呼ばれ、世界中のアイルランド系の人々が、シャクロックを胸に、緑色のものを身に付けて祝います。
90年代、ヨーロッパの辺境アイルランドにもスポット・ライトが当てられました。アイルランドは人口僅か450万人の小国ですが、世界各地に住むアイルランド系の人々は7千万人を超すといわれています。紀元前数世紀、アイルランドの祖先であるケルト民族はヨーロッパの中央で隆盛を誇っていましたが、ゲルマン人の進出とローマ人の征服拡大によって、大陸の辺境へと追いやられてしまいます。そして、最後に辿り着いたのが、アイルランド島をはじめイギリスのスコットランド、ウェールズ、そしてフランスのブルターニュやスペインのガリシアでした。つまりケルト人はヨーロッパ大陸での生存競争に敗れて辺境に追いやられた民であり、後二千年間の現在に至るまで、その歴史は抑圧と忍従の歴史でした。とりわけアイルランドの歴史は悲劇そのものでした。
12世紀、イギリス王ヘンリー2世のアイルランド征服以後、八百年に渡りイギリスのアイルランド支配は続いてきました。部族の共有制だった土地はアングロ・ノルマン系貴族に分与されアイリッシュは農奴に転落、緑の島はイギリスに穀物や食肉をひたすら供給するだけの工場となりました。17世紀にはオリバー・クロムウェル率いるイギリス共和国軍によるジェノサイドという惨禍を被り、多くがアメリカなどへ奴隷として売り飛ばされました。さらに19世紀半ばのジャガイモ疫病による大飢饉により百万人近くが餓死、二百万人近くが海外へ移住するという壊滅状態に陥りました。このジャガイモ飢饉の際に小麦などの農作物がイングランドに大量に移送される一方でアイルランドからは食物が枯渇し、小作農の大量餓死が発生しました。1840年には8百万人を数えた人口は1911年には440万人にまで減少しました。マルクスは資本論の中でこの不幸について言及しています。この時期に受けた困難はアメリカに移住したアイルランド人の原点となり、のちのアイルランド独立闘争の際にしばしば言及されました。
1922年、さまざまな闘争を経て、アイルランド自由国が成立しますが、北部アルスター地方の6州は北アイルランドとしてイギリスに留まります。これがアイルランド内戦へと発展し、血で血を洗うような闘争が最近まで続いていました。
このような悲惨な歴史を持つアイルランドですが、ノーベル文学賞を4人も生み出すような文学大国でもあります。アイルランドという国は負けの連続だけれども、アイルランド人は自らのアイデンティティを失わずにしたたかに生き続けています。「判官贔屓」という言葉がありますが、こんなアイルランドに声援を送り続けたいと思います。2005年の英エコノミスト誌の調査では、アイルランドが最も住みやすい国に選出されています。
15年ぶりにアイルランドを訪ねます。今回は妻と二人で、アイルランド島の南半分をレンタカーで回ります。